中年派遣員奮闘記(第一章)
<ご挨拶>
私は2003年8月より、此処BURKINA FASOの地で日本ブルキナファソ友好協会の現地駐在員として活動させて頂いて居ります飯田勉と申します。茨城県岩井市出身、年齢四十九歳、日本では美容を業として居りますが、以前より青年会議所活動や県のボランティア活動に参加させて頂き、また地域では美容学校の講師や市の商工会など毎日アクティブな生活を送って参りました。以前より海外のNGO活動に興味があり特にアフリカの人々の生活や出来事を常々機会があれば行って直に体験して見たいと思って居りましたが、このたび縁あってJBFAより派遣の要請を頂き、現在ブルキナファソの駐在員として活動させて頂いて居ります、語学、知識共に薄弱な私ですが意思と体だけは(年の割には?)強靭と自負して居り、それを汲み取って下さったのか、今この地に於いてJBFAの派遣員として活動している事に誇りを感じる次第です。
このような私ですが、これから皆様にBURKINA FASO の出来事を私なりに御紹介して行きたいと存じます。
<道中のできごと>
成田よりモスクワ、フランス経由でブルキナファソ・ワガドゥグに着くまで2日要します、成田を出て約4時間シベリヤを越えている時、隣には三十歳代のロシア人の女性が座っていました、それまではロシア語は出来ないし、何を話しかけて良いか戸惑いながら無言で居りましたが、突然「どこまで行くのですか?モスクワ?」と、とても流暢な日本語で話しかけてくれて一瞬びっくりいたしましたが、それからは私も如何にか落ち着いて話が出来ました、話を
モスクワの空港では4時間ほどトランジットがあります、空港を散策しお腹が空いたので何か食べようとコーヒーショップに行きお金を出すと、言い方が悪かったのでしょうかドルは使えるがユーロは使えないと言うのです。成田で全部ユーロに変えてしまったので、モスクワ空港の銀行でドルに換えようとしましたが換えてもらえず、仕方なく呆然と次の便を待つ事にしました。まだブルキナまで3分の1これからの事が思いやられます。やっとの思いでパリのドゴール空港に着きました。「ここがパリかー!」、空港もモダンで明るくお洒落な人たちが笑顔で会話をしています。ここでは11時間のトランジット、ホテルは高いし、時間も中途半端なので空港で過ごす事にしました。着いたのが夜の12時ごろなので、酒でも食らって寝てしまおうと探しましたが、店は全部閉まっていて仕方なくロビーのベンチで寝る事にしましたがなかなか眠れず、お腹は空くしタバコは吸えないし長い長いパリの一夜でした。
「いよいよ今日はブルキナだー」と、勇気を奮い立たせ、まだ見ぬブルキナに期待と不安を抱きながらコーヒーショップで思いを馳せる朝でした。
<ブルキナに着陸>
ドゴール空港からの機中で、日本人の女性の方に出会いました。彼女は政府のほうからのボランティアでブルキナに2年間活動を
機中約5時間後ワガドゥグの市内が見えて来て、こ れまでの苦労?は吹き飛んで体に気力が満ちて来ました。草原の中に集落が点在し中心部はとても簡素で東京やパリのように大きな建物はなく平面的な様子です。ここでこれから3年間にどの様な出来事があるのか、又この国の人達は私を受け入れてくれるだろうか、などとこれからのことを思うと複雑な心境になり、それまであまり外国に行ったことがない私にとって月に軟着陸でもするかの思いでした。飛行機は旋回しながら徐々に高度を下げ着陸態勢に入り、まもなくワガドゥグ空港に滑り込みました。
ブルキナでの第一歩、タラップを降りたとき「私にとっては小さな一歩だがブルキナにとっては大きな一歩です」(大小逆ですが)などと独り言をつぶやきながら、疲れが出たのか脚がもつれ、やっとの思いでロビーに辿り着きました。
<ロビーでの出来事>
午後の3時、ブルキナの暑さは日本とは異質の物です。日本に比べ湿度が無いせいか、とにかく太陽光線が暑く、日陰に行くととても涼しく感じます。早く外に出て現地オフィスの清水さんと会わなければと、逸る気持ちを抑えながら荷物の受け渡しを待っていました。ところが待てども一向に荷物が出てきません。やがて到着の時の賑わいも無くなりとうとう機械も止まってしまいました。頭の中はパニック状態、呆然としていると荷物係りの人なのか、何かこちらに向かって話しかけてい
明日取りに来てくれと言われ、仕方なくすごすごとゲートを出ながら、清水さんがさぞかし、心配しているだろうと思い周りを見ると清水さんらしき姿は見受けられません。きっと待ちくたびれて帰ってしまったのか、それともあたりを探し回っているのかなどと考えながら三十分くらいじっと待っていました、ふと事務所の電話番号のメモがあったのを思い出し、電話ボックスを探しましたが、それらしき物はありません。なにやら電話の絵が描いてある小屋を覗いて見ると幾つかの小さな部屋があり電話らしき物があります。きっとここはブルキナの如何わしいツーショットダイヤルの電話屋なのかと思い、小屋の中にいた女の人に片言の英語で聞くと英語が解からないらしく、仕方がなく身振り手振りで説明するとムッとした顔で電話のほうを指差しています。部屋に入ると電話は普通のものでお金を入れるところはありません。とりあえず「お願いだから電話に出てくれー」と念じながらダイヤルすると「アロー」と清水さんらしき声、「今着きました!」というと「あれ、もう着いたんですか?」とおっしゃる。「今行きますから待っていて下さい」。アア!良かったと安心して外へ出ると険悪顔で電話屋の娘が追いかけてきて「マネー!マネー!」電話代を払うのをうっかり忘れていました。
それから清水さんが来るまでの四十分の時間が不安感からか何倍にも感じられました、何しろ初めて見る世界で右も左もわからずタクシーの人は集まってくるし、物売りの人は寄ってくるし暑いし、日本から来るとあまりにも景色が違うのではじめは戸惑ってしまいます。清水さんの姿が見えたときは遭難者が救助隊に発見されたかのような思いで、清水さんの大きい姿がより雄雄しく見えました。清水さんに聞くと、どうやら飛行機はいつも夜8時ごろ着くようで、まさかこんなに早い時間に来るとは思ってなかったようです。ブルキナまでどうにか一人で来られたという満足感と、清水さんに会えた安堵感は、これまで私にとって何物にも例え様のないものでした。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第二章)
どこの街にもその街の匂いがあるもので北京へ行ったときは中華料理の香辛料の香り、ハワイは潮風とサンオイル、ロスアンジェルスはアスファルトとGRASSの香りとそれぞれに特色があるものです。ワガドゥグの香り、と目を瞑り胸いっぱいに息を吸い込んで何回か深呼吸してみると1回目は自動車やバイクの排気ガスの香り、2回目は溝水の香り、3回目は近くにいたお兄さんの汗と腋臭の香りでした。
清水さんに空港での事情を説明すると空港の近くのホテルの側に民芸品やインターネットカフェなどの在る賑やかな所があります。そこには何人かの人たちがいてみんな道路を挟み、向かいのホテルの方を向いて団欒しているようです。風体はラスタ風の人、本や雑誌を抱えている人、新聞の一点をじっと見詰めている人、長い髭のイスラム風のだんだん近くになるに連れその人たちがこっちを見ております。ウワー前を通るのいやだなーと思い、なるべく視線を避けてやり過ごそうと清水さんの体に身を潜めるように歩いていくと、何と清水さんは加速しながらそちらに方に近づいていくではありませんか。側に行くとみんなニコニコ「カカオー、カカオー」と言って握手指パッチンをしております。こちらの言葉で「カカオー」が挨拶と思い「カカオー」と小さく震える声で握手をするとみんな笑顔で「アンシャンテ、ウェルカムハウァユー!」ととても気持ちよく迎えてくれました。どうやら みんな清水さんの友達だったみたいです。後でよく考えてみると挨拶と思っていたカカオーは清水さんの名前「貴夫」だと判明しました。
中でもちょっと小柄でフランクな感じの人で名前はラミン、清水さんがなにやら英語で話をすると、もう一度確認に空港へ行ってみてくださいということで、ラミンと二人して空港に向かいました。空港までは1キロくらいでしたが、くたくたに疲れ果てた私にとってはとてもつらい道のりです。ところがラミンはとても歩くのが早く、無言で歩く私に気を使ってか「俺は何キロ歩いても疲れないよ」とか「ここからマラソンするか」とか気の遠くなるような言葉を投げかけてきます。地元の利を生かし細い裏道をすり抜けていくラミンの後を汚水の小川を避けながら必死で追いかけました。再び空港へ戻り職員の説明を聞き、明日の飛行機で着くとの事で一安心、また地獄の道のりをどうにか引き返して来たのが午後7時ごろでした。
それから清水さんと共にJBFA事務所に乗り合いタクシーに乗り行くことになりました。このタクシーがまたまた凄く20年前のベンツが多くて色は薄緑、艶は無くガラスはひび割れ、まるでゾンビのような容姿です。ディーゼルエンジンなので真っ黒い煙を出してガラガラと勇ましい機械音を立てて走ります。日本のタクシーはメーター料金ですが、ブルキナの乗り合いタクシーはルート内であれば200cfa(40円)です。電車が無いのでこの乗り合いタクシーが市民の足となり大活躍しています。乗車定員が無いので何人乗っても大丈夫で多い時には7人も乗ります。まあ日本の通勤ラッシュよりは良いかもしれませんが。
<JBFAオフィス>
と言うことで無事にJBFA事務所に到着出来た訳です。
空港から乗り合いタクシーで10分くらい行った所にサマンディンと言う地区があります。市内の中心は狭いところにたくさんの住居や店が雑居していますがこのあたりは住宅も
その扉を押すとギギギギーと鉄とコンクリートの擦れる不協和音を奏でます、天然チャイムでしょうか、向かって右が城主ムッシュ・バルコマのメゾン、そして左側が私たちのオフィスです。着いたときが夜でしたのであたりは暗くその時の心境はディズニー、いや浅草花屋敷の恐怖の館にでも入るかのようにドキドキワクワク。事務所の扉に近づくと何か動いております。壁面をちょろちょろと、恐る恐る凝視してみるとトカゲとヤモリではありませんか!私はこのタイプが非常に苦手で一瞬後ずさりしましたがアフリカの環境に順応している清水さんは何事も無いかのように扉の鍵を開けています。周りを注意しながら部屋に入ると薄暗い電球に浮かぶ白い壁の部屋、そして中央には白いプラスチック製の丸テーブルに同様のいす、奥にはブルキナ風のごつい応接椅子があり、天井にはヤモリが1匹、ブルキナではごく普通のことも初めて経験する世界は何事も 刺激的に感じられます。「ここの部屋をお使いください」と清水さんに促され部屋に入ると8畳間くらいの広さで目も慣れてきたせいか、思っていたよりなかなか良い感じです。居間兼オフィスで少し寛いだ後、食事をしていなかったので近くのレストランで食事をすることにしました。
「CAFÉ INN」といって道路沿いのブルキナ風カフェテラスの店です。大きい交差点の近くで夜も人や乗り物が行き交い、とても賑やかです。FLAGというビールを頼み清水さんに注ごうとすると「ブルキナでは自分の飲み物は自分で注ぐんです。知っておいたほうが良いですよ」と言われ、周りを見るとみんなそのようでした。ここでまた日本との習慣の違いを実感しました。疲れもあり気温も高いせいか1本のビールがとても強く飲み終える頃はかなり酔いが廻り、目も半開き状態になり、とりあえずオフィスに引き上げました。さてそこからまた一難去ってまた一難、荷物が届かなかったのでシャワーをするにもタオルはないし着替えも無く2日前のまま、タオルは清水さんに借りてとりあえず2日の垢を落としベッドに転がり込みました。暑苦しくなかなか寝付けず、うとうとしていると足のほうが痒くなって耳元でプーンという小さな音が聞こえます。ブルキナはハマダラ蚊によるマラリアが多いし清水さんも以前かかったと聞いていたので電気をつけ蚊の捜索にかかりました。きっと4〜5匹はいたのでしょうか。電気をつけるといなくなり消すと現れ蚊との攻防を繰り返すうちに寝てしまったらしく、いつの間にか朝になっていました。アフリカブルキナファソの一日は熱く、そして私にとってとてもアクティブでした。日本の生活にどっぷりと浸りきっていた私は、これからここで3年間生活をすると思うとなんとなく気が重くなってきます。と同時に飛んだ所に来てしまったな思ったのは 本音かもしれません。
<朝 食>
ワガドゥグの朝はすがすがしく、ここの人たちは皆早起きで5時にはイスラム教のコーランが「アラーハクバル」とモスクのスピーカーから聞こえてきます。6時頃は通りのバイクの音や、近くの家からラジオ放送が聞こえています。しばらくの間まだ昨日までの疲れが残っているせいか微睡でいました。眠さが心地よく感じられ薄目を開けて横を見ると昨夜の激戦の跡の蚊が壁に2匹ほど 血にまみれて張り付いております。「6箇所も刺しやがってこれでマラリアになったら最悪だぞー」など寝惚け声でつぶやきながら部屋を出ると清水さんもちょうど起きて来て「おはようございます。昨日はお疲れだったでしょう。昨日は眠れましたか」という爽やかな問いかけに思わず「おはようございます。はい良く眠れました」と答えてしまいました。
少しして清水さんから今日の日程を聞き、何か朝食をということで外に出ました。朝の通りは昨日の夜と風景が変わり皆活動的で、なんとなくアフリカの人たちの熱いダイナミックなパワーが感じられます。通りを歩いていくと道端にある屋台風の椅子に人が何人か座っています。清水さんがそこでサンドイッチでも食べますかと言うので早速その椅子へ腰を卸しテーブルを見ると、たくさんの蝿が群がっているではありませんか。いくら追い払っても蝿の一匹一匹がそこにいるのが当然のように馴れなれしい有様で、周りの人達もあまり気にしていないようです。
日本でもそうですが、屋台と言うのは一般庶民が気軽に利用出来るというのが良いところ、清水さんが「カフェオレ飲んで見ますか。ちょっと日本では味わえないですよ」ということで清水さんにお願いして頼んでもらいました。まずカップが置かれます。コーヒーカップではなくアルミニュウム製の給食のカップに似た形の器に練乳を並々といれ、そこにネスカフェをサラッとヒトサジ入れます。そして熱いお湯を注ぎ蝿よけの皿をかぶせてと出来上がり。一口、口に含むとコーヒーの味より練乳の方の甘さと香りが先に来てホットコーヒー牛乳のようです。次はサンドイッチです。屋台のおっさんが長いフランスパンを片手に持って器用にナイフで二つに切り、細切れにした玉ねぎをフライパンに載せて卵を入れマギースープの粉末を少々加え炒めパンに挟みます。これが結構うまいのです。蝿もこの甘いカフェオレが大好きと見えて皿をとって飲もうとするとすかさず飛んできます。そのうち蝿と人間のカフェオレ争奪戦のようになって来て向こうは大群こちらは二人。追い払ってハエが逃げる時にカフェオレを飲むという頭脳プレイで交わしていましたが、蝿も学習能力があるのか戻ってくる速度がだんだん速くなってくるように感じたのは気のせいでしょうか。
朝食も済み、昨日行ったホテルの側のところで清水さんはインターネットカフェで本部との交信、私は昨日知り合ったラミンと片言の英語でボディーラングウェッジを交えながらコミュニケーションを図っておりました。自動車大国の日本はブルキナファソも例外ではなく、多くの日本の車やバイクが沢山走っております。車やバイクやカメラ、コンピュータなどの話をしているうちにラミンの人柄がだんだん解ってきました。彼はとても自尊心が強く、日本に興味を持ち、他の物売りの人とはちょっと違う個性を持っています。「昨日の事は心配ない、また俺が一緒に行ってあげるよ。今日の飛行機で必ず来るから大丈夫」などと話をしているとブルキナの人は皆穏やかだと聞いていたことが思い出されます。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第三章)
清水さんがインターネットカフェでの報告を終えて、前のテラスにて4人位で話をしておりますと斜め前の 路地から一人の男が現れました。足がちょっと不自由なのか、上半身を左右に揺らし何やら大きな声で叫びながら近づいてきます。ラスタ風の短めのドレッドヘアで痩せていて大きめの口からは歯が何本か抜けているのが見受けられます。「カカーオー、キングオヴキングス!」とちょっとかすれた声で清水さんと恒例の挨拶である握手指パッチンを2回3回と繰り返しております。そのうち清水さんが顔をしかめながら「イテテ!コイツの握手はいつも痛くてー、コイツは酒が好きで酔っ払うと何時もうるさいンですよ」と言うとまた大声で「カッカーオー! ビックビックラスター! キングオヴキングス!WAHAHAHA!」とより大きな口で大笑いしながら清水さんに握手指パッチンを繰り返し、その度に清水さんの表情がゆがみます。彼の名前は「ワゾタ」ブルキナの太鼓(ジェンベ)のプレイヤーで良くコンサートにも出ている様です。手の平を見せてもらうと殆ど全部が硬い胼胝の様な状態で硬くなっています。この手でジェンベのように叩かれたらかなりの衝撃かと思われます。モシ語で何を言っているのかは解りませんが殆ど一人で語り続け、時々ラミンが涙を流しながら笑うので、それを見てこちらも可笑しくなり笑ってしまいます。「ワゾタは太った大きい女が好きなんだよ」と言うとちょっと恥ずかしそうな仕草で「NO〜」とニヤニヤと笑みを浮かべ、なんとなく憎めない人柄で皆の人気者の様です。
<JBFA現地STAFF>
荷物も無事到着し、協会より持って行くように依頼されたプリンターも壊れている様子もなく、やっとこれで一安心。夜は現地スタッフの顔合わせ並びにミーティングです。午後7時頃でしょうかタプソバさんと尚子さん夫妻が訪れました、タプソバさんは自営で看板製作をする仕事の傍ら村などへ行くときはドライバーとして、また尚子夫人には色々な細かいサポート面でお手伝い頂いております。タプソバさんは一見クールな印象ですが話をするととても明るく賢明で責任感のある人です。そして尚子夫人は以前JBFAの派遣員としてブルキナにおいでになり、フランス語、英語、共に堪能でアフリカは勿論オーストラリアやイギリスなど在留経験があり文字通り国際派の女性です。縁あってタプソバさんと結婚され、お二人にはファティマ(通称エイミー)ちゃんという生後10ヶ月程の女の子がおります、この子がとても可愛くて何とも言えない愛らしい笑みをこぼします。
調べによるとBURKINA FASOの人口は1,350万人(2004年推計)で,首都OUAGADOUGOUは人口約100万人、地図を見ると国のほぼ中央に位置し放射状に各地を結ぶ幹線道路が伸びております。市内は空港を中心に近くには大統領官邸や国家機関がありその地域に隣接して銀行やホテル、駅などが在りますが、駅は現在コートディボアールが紛争で国境を封鎖しているので不通になっており閉鎖中です。
都市化しているのは市の30パーセント程度で道路は幹線道路を除き殆どがラテライト道路、上下水道はもちろん公共施設の整備はまだこれからという所です。市内の道路はほぼ直線で碁盤の目のようになっており幅30?位の歩道つき道路と8?位の道路、それを結ぶ4?くらいの路地があり、舗装されていない道は側溝が無いので生活雑廃水が道路に流れ汚臭を感じます。またラテライトは紅土といって熱帯地方に多く見られる土で、鉄やアルミニュウムなどの酸化物が多く含まれ作物の栽培には不向きです。砂状粒子がとても細かく精密機器などの中に入り込んでトラブルの原因の1つとなり、現に自動車はオートマティック変速機の物はなくマニュアル変速機が殆どで、一日外にいて白いタオルで顔を拭くとタオルがオレンジ色になります。舗装道路には自転車、バイク、自動車が混在して走っていますが特にバイクに乗っている人が多い上に、こちらの国はバイクの免許が無くても乗れるので交通ルールを知らない人も多く、自動車に乗っていると衝突しそうなのでとても危険を感じます。
市内の繁華街はグランマルシェと言って、とても大きな市場がありましたが2年ほど前に火災に見舞われ今は閉鎖されたままになっており再開まではもう2年ほどかかる見込みです。しかしその周りには沢山の店があって、買い物客で賑わい活気があり、歩いていると生活用品や衣服などの店が特に目に付きます。また、歩きながら品物を売っている人も多くいて、それぞれ時計や電気製品、衣服、薬、食べ物、野菜、靴磨きその他いろいろな物を手に持ち、また頭の上に載せて道を歩いている人に見せながら品物を勧めて歩きます。私の場合日本人なので目立つせいか何処へ行っても品物を勧められますが、品物の値段は日本人などの場合は割りと高い場合が多く言われた値段の半額くらいから交渉すると安く購入出来ます。また民芸品の店も数多くあり、布や木彫、金属の鋳造品、アクセサリー、楽器などの品物を売っております。十数軒の店が固まっており観光客などが前を通ると店の人が声をかけて来ます。中でも金属の鋳造品は一つ一つ手作りで同じ物はなく、真鍮製なのでとても美しい物です。
ワガドゥグの人たちはとてもお茶が好きで、何人か集まるとお茶を作りみんなで世間話をしながらお茶を飲んでいます。お茶は中国の緑茶で5 センチほどの深緑色のパッケージに入っていて葉は日本の物より黒い色をしています。作り方を言いますと、
1. まず10センチほどの火鉢に炭を入れて火をおこします。
2. 直径10センチほどのやかんに水を入れ、沸騰したらお茶の葉を大さじ2杯ほど入れ7〜8分煮出します。
3. それから大き目のコップにやかんのお茶を全部注ぎます。
4. またお茶の葉が入ったままのやかんに再び戻し火にかけて7〜8分煮出します。
5. これを2〜3回繰り返します。
6. その後大きめのコップに砂糖を大さじ2杯くらいの砂糖を入れ再びやかんのお茶を注ぎます。
7. そしてコップの砂糖が完全にお茶に溶け込んだらまたお茶ガラの入ったやかんにまたもどします。そして2〜3分火にかけます。
8. これをまた2〜3回繰り返します。このときにはなるべく高い位置からお茶をコップに注ぎ泡をたてます。こちらでこの泡のことをムースと言います。
9. ウィスキーをストレートで飲む時に使う小さなショットグラスを5個ほど用意します。
10. まず大きなコップに高い位置から注いだときに出来るムースをグラスに取り分けます。
11. ムースを取ったらやかんにもどしグラスに注いで出来上がりです。
<食べ物・飲み物>
マルシェ(市場)に行くと色々な物があります。果物は日本でもお馴染みのリンゴ、オレンジ、バナナ、パイナップル、スイカ、マンゴ、パパイヤなど、野菜はピーナッツ、トマト、キャベツ、なす、瓜、ジャガ芋、サツマ芋、とうもろこし、ピーマン、セロリなど日本のスーパーで売っているものも多くありますが、日本でお目にかかれない物もあります。イーヤムと言う巨大な芋で3〜5キロくらいの重さがあり、細かく切って、ゆでて鳥などのソースで味をつけて食べ、感触は里芋のような感じです。ポムカネルという果物は薄緑の色で表面はいぼいぼの形をしていて果肉は少なく大きめの種が沢山あり口に含むととても甘く独特の香りがあります。穀類はタイ米や中国の香米、国内産の粟など、魚は内陸なので少なくフナやナマズなどの淡水魚と輸入されたアジやサンマなどで殆どが日干しの物です。肉類は鶏、ホロホロ鳥、ウサギ、ヤギ、牛などあり、冷凍された物はなく鶏やウサギは生きている物を、その場で屠殺して売っています。また肉売り場に行くと、牛の頭や足がそのまま置いてあったり、とても新鮮ですが日本では見慣れない光景なので、はじめはショックを受けます。
こちらの飲み物で特に特徴のあるものはチャパロと言う飲み物です。チャパロはドロとも呼ばれ粟の実が原料でこれを発酵させたもので、色は琥珀色でビールのように細かい泡が出来ます。粟のみは赤い実と青い実と2種類あり、大きめの赤い実はチャパロ、小さめの青い実はトーなどに使われ、飲み口はまろやかで独特の香りがします。味はビールのような苦味はなく、炭酸水を飲む時の様な少しピリッとした刺激があり、アルコール度数はビールより少し高いようでビールのような感覚で飲むと後でかなり酔いが廻ってしまいます。このトラディッショナルビールはどこの家でも作っている自家製ビールでカリバスと言うヒョウタンの様な硬い実の殻で飲みます。
小さめの粟はトーと言う食べ物を作るときに使われます。、トーには粟(Millet)で作る物と、とうもろこし(Mais)で作る物の2種類あり,いずれのトーも粉にした物を使います。作り方は、まず粉を水で溶き、水を入れた鍋を火にかけて煮え立ったら水で溶いたものを加えてかき回し、少し固まってきたら別の容器に半分ほど移し残りの半分にまた粉を足し少し固めものを作り、そこに先ほど移した物を徐々に加えながら練って行きます。その後とんかつ位の大きさに分けながら移し換えて熱をさまします。そして鶏または牛肉などのソースと一緒に食べます。ソースにはスンバラと言って、日本の干し納豆に良く似たものがあり、それを砕いて入れると更に美味しくなります。
そのほか飲み物食べ物は、セネガル料理、ガーナ料理、コートディボアール料理など、とても紹介しきれないほど沢山の物があり、ここでは特に珍しい物を紹介しました。
ワガドゥグから北東約300キロの所にバニキディという村があります。そこはDr.ディアノウがプロデュースされている所で、JBFAでは学校や診療所、井戸などを作るほか、保健衛生教育や、教育面で教科書やノート、ペン、石鹸などを配布するなど数年に渡り係わっており、今回の訪問は離乳食と学校給食を作る施設建設の事で、村の人達との事前の話し合いをすると言う事です。
どんなに日本から色々な施設や物を与えても、それを使う人達の意見や意思、意識がなければ何もならないと言う清水さんの話しを聞き、確かにブルキナファソは、まだ電気や清潔な飲み水も無い所が多く、また貧困の為病気になっても病院にかかれない人や学校へ行けない子供も沢山いて、日本で考えるよりも実際に苛酷な環境の中で生活をしております。それゆえに、どんなに便利な物でもそれを使えるだけの知識や技術、維持するための最低の財力が無いと使い物にならないか、使えても維持管理が出来なくては宝の持ち腐れとなってしまいます。それゆえにまず村の人達との話し合いを充分にした上で、村の人達が主体となって、恒久的に使えるようにしなければ意味がないという事です。
ワガドゥグを出発したのは7時頃でした。5人乗りのトラックにはドライバーとタプソバさんそしてDr.ディアノウと息子のマリオ君、そして清水さんと私の6人で乗り込みましたが、トラックは少し後部座席が狭くかなりの鮨詰め状態です。ワガドゥグから数十キロ行った所からは、舗装道路からラテライト道路になり、おまけに雨季なので雨が降るたびに道路が傷みます。トラックはあまり乗り心地のことは考えて造られてはいない様でガタン!ガタン!と体に伝わる衝撃は予想したよりも激しく、道の壊れた所を縫うようにトラックは走ります。約150キロ行った所で昼食を取る事になりました。ブルキナ風ドライブインとでも言えましょうか。広い敷地に屋根のあるテラスが5つ6つ在り、とても良い雰囲気の所です。私は朝から何も食べていませんので、ビールとライスにピーナッツソースをかけたものを頂きました。鶏をピーナッツバターとコンソメスープで煮込んであるソースで、これが日本ではちょっと味わえない風味です。皆お腹もふくれ休息をして再び苦痛の道のりです。しばらく車に揺られておりますと、なんとなく込上げる物があり、汗が出て、このまま我慢しようと堪えましたが車の振動が激しく、とうとう耐えかねて車を止めてもらい、先ほど食べた物を全部出してしまいました。日本ではこんな事は無かったので、これから先は長いし、とても不安にかられます。20分程休息してどうにか気分も落ち着いて来たので、どうにか続行となりました。どこまでも続く悪路、揺れる車の中で「これがアフリカだ」と思いました。
バニキディ村に着いたのは夕方6時頃、もう日も暮れかかっていてDr.ディアノウが村の主な人達を紹介してくれ、一通り挨拶が済むと診療所の前に行き、一時たつと徐々に人が集まりだしました。大人子供を含め約40人程度男性と女性のグループに分かれDr.ディアノウの進行で会議が始まりました。議題は離乳食と学校給食を作る施設建設に付いてです。Dr.ディアノウが施設に付いてまず説明し、後に質疑応答デスカッション。会議は約1時間、最後はみんなで拍手をして滞りなく終了です。
会議も無事終了し、ボガンデと言う近郊の町に宿泊する事になり、街のレストランにて食事をしましたが、初めての旅の疲れか体調も思わしくなく、食欲も無いのでコーラを頂きましたが、他の方々は美味しそうに鳥の料理を食べています。Dr.ディアノウが、食べないと元気が出ないよと言ってくれるのですが、匂いだけでもまた気分が悪くなりとても食べる状態ではありません。ホテルは一戸建てで5部屋位あり一番奥が私の部屋です。中を見ますと薄暗い部屋にベッドが在ります。1日の汗を流そうとシャワルームに行くと、タオルと石鹸が有りません。それまで日本のホテルの感覚でいましたので、備わっているだろうと思っていたのは間違いでした。疲れていて、借りにいくのも面倒なので、とりあえず水で汗を流してハンカチで体を拭きベッドに倒れこみました。しかしそれからが大変、蚊は沢山いるし、カヤがないので刺されないようにまた服を着て寝ると、今度は暑苦しくてどうしようもないので扇風機を最大にして寝る事にしました。ところが、夜中の2時頃雷の音で目が覚め、間もなく停電に見舞われ、真っ暗の中で何も見えず暑くて体は汗でびっしょり。また「これもアフリカだ」と思い知らされました。
朝になり、体は重くだるいので気分転換でも図ろうと外に出ますとマリオ君が居りました。一緒にあたりを散歩していると沢山のアリがいます。そのアリが日本のアリに比べると3倍位あって、あまり大きいので驚きます。アリの通り道を辿って行くと、小さなアリを捕まえ自分の巣へ運んでいる様です。そこでちょっといたずらをして、アリの通り道に大きな石を置いて見ると、一瞬パニック状態になりますが又何も無かった様にもくもくと作業を続けます。「アリの世界も弱肉強食なんだな」などとちょっと複雑な心境に陥り、しばらく見とれていると、出発の呼び声がして慌てて部屋に引き返し荷物をまとめ車に乗り込みました。また帰りは過酷な道のりです。昨日の事も有り朝食は軽めに済ませワガドゥグへと車は走ります。約半分の所で一休憩と言うことで車を止め、固まった体をほぐしまた出発です。後部座席が窮屈なのでタプソバさんが荷台に乗り、20キロくらい走った頃突然タプソバさんが大声で運転手に何か話をしています。車が停止して話を聞くと、どうやら財布を落としてしまったらしく、免許証や身分証明書なども一緒に入っていた為これは一大事と言う事で、又来た道を引き返す事になりました。道路ですれ違う人一人一人聞きながら戻ったのですが見当たらす、荷台に乗り移った所まで引き返しても有りません。諦めて又引き返すと、10キロほど行った所で財布が見つかりましたが、お金と免許証が無くなってしまった様です。とても気の毒で、何とも言えない心境でした。日本では荷台に乗って悪路を何十キロも行くと言う事は、今では有り得ない事ですし、お金はともかく免許証は戻るはずです。ここでも又「これがアフリカだ」と感じました。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第五章)
ブルキナに来て1週間ほど過ぎた頃、清水さんよりワガドゥグの街を早く知るのに一人で行動して見てはと言う提案がありました。それまで何処に行くにしても、道や場所が解からないので清水さんの行く所へついて行くのが当たり前と思っていましたので、とても不安でしたが思い切って行動して見ようと決心し、ちょうど郵便局まで行く用事があったのでタクシーで行く事にしました。乗る場所と降りる場所の地名を清水さんから聞いて、身支度を整えその時の心境は3〜4歳の子供が初めてのお買い物に行く時の様です。
大通りに出ると緑色のタクシーが沢山走っています。いつも清水さんが車を止める時の様に、右手を出し車に合図をすると、当たり前の事ですが私の所に止まってしまいました。タクシーの運転手と乗っていた乗客がこちらを見ています。緊張していたのか、恐る恐る運転手に「パームツリーホテル」と言うと、ちょっと時間が止まったかの様に無言の時間があり、運転手は進行方向を向き行ってしまいました。ちょっと発音がまずかったかと思い、次のタクシーが来たので気を持ち直し何回か練習をしながら手を差し出し、タクシーが止まると今度は少しゆっくりと「パームトゥリーホテル」と言いますと、またしても運転手が首をかしげながら走り去ってしまうではありませんか。自暴自棄になり、もし今度行かれたときは帰ろうと思いながらタクシーを待ち、もう1度手帳に書いた場所に目を通し、よく見ると「パームビーチホテル」だったのです。
やっとのことで車に乗ったのは良いのですが、今度はパームビーチホテルの場所が解らないのです。こちらのタクシーは乗り合いなので、決まったルートしか通らず、料金もその範囲であれば200セファー(40円)でそこから外れると高くなり、日本のタクシーのようにその場所まで連れて行ってはもらえないので、その場所に行ったら運転手に声をかけて止めてもらいます。その時タクシーには5人くらい乗っていましたので、止まるたびに周りを見渡し注意深くホテルを探し、「海がないのにパームビーチ、それはないだろう」などと呟きながら行くと繁華街の十字路の角のところにホテルはありました。そこからプレジデンス(大統領官邸)の近くの郵便局までは、タクシーのルートが違いますので乗り継ぎます。ところが今度はプレジデンスの場所を知らないので、どちらの方向に行くタクシーに乗れば良いのか解かりません。考えても仕方がないので、十字路の所でそれぞれの方向に行くタクシーに声をかけまくり、やっと思いでプレジデンス方向のタクシーに乗り、また周りを注意しながら行きますと、前に白い大きな建物が見え一段と豪華な建物なのですぐそれと解りました。
このあたりは政府の色々な機関が集まっており、銃を持った警官が沢山いて、なんとなく繁華街とは異質の雰囲気で、タクシーの運転手はプレジデンスのちょっと手前で止まりました。郵便局はプレジデンスの並びにあり500メートルほど歩いて行きます。道を歩いていると警官がこちらを見ていてなんとなく不気味で、何も悪い事はしていないのですが、もし職務質問でもされたら大変だと思い、あまり周りは見ない様にして歌を口ずさみながら自然と早足で歩きました。郵便局に行くと奥の入り口の左側に私書箱があり、そのナンバーの所を鍵で開け郵便物を取り、これでひとまず用事は済みました。
さて今度は帰り道です。郵便物を取り終えて表通りへ出て、また来た道を引き返し歩きましたが、警官のいる所を通るのが何と無く嫌なので、暫くタクシーの来るのを待っていましたが5分経っても10分経っても車は来ません。仕方なく警官のいる所をまた通る事にしました。人間の心理状態というのは不思議な物で、一端その様に思い込むとなかなか払拭出来ないものです。警官の方は何とも思っていないのに、こちらの方で妙に意識過剰になり、前を通り過ぎる時に、いかにも郵便局へ行って来たと解る様に封筒で扇子の様に扇ぎながら、警官の方を見ない様にと思っていると見てニコニコしてしまったり、後で思うと御目出度い日本人に見えてしまったかも知れません。警官の姿が見えなくなるまで、振り向かず歩いて行くとタクシーに乗ることをすっかり忘れ繁華街まで来てしまいました。
とにかく早く帰ろうと思い、タクシーの運転手に暗記した手帳に書いてある地名をいうとまた通じません。地名はサマデンヌゴグドロン、日本人にはどうも解釈のつかない発音です(本当はサマンデン・ヌゴ・グドロン)。ここでも何台か行かれた後、やっと解かった様でとりあえず乗り込みましたが、町並みが皆同じに見えて何処で降りたら良いのか解からず、運転手が後ろを振り向き盛んに聞くのですが解かりません。だんだん焦りも出て来て、あまり遠くに行く迄に降りた方が良いと考え、お釣りを受け取るのも忘れ、とりあえず周りを見ても同じような店や屋台の形で何処が事務所か見当がつきません。きっと運転手は自分の言った場所と違う場所に来てしまったんだと思うと急に不安に陥り、もしこのまま夜になったらどうしようと思うと居ても立ってもいられず喉が異常に渇いたので、ミネラルウォータを買ってそれを飲みながら一目散に歩き出しました。途中何回か聞きながら事務所を探したのですが全然見当たらず、2時間くらい同じ道を行ったり来たりしているうちに、暑い事もあり疲れも出て来ました、少しずつ距離を伸ばして行くと何時も行く店のお兄さんが立っています。そこでやっと解かりました。何時もの道を反対の方向から来たのです。何しろ初めての道で、見当もつかず何処も同じ所に見え、まるで迷路に入った時の様な状態でした。
やっとの思いで事務所に戻り、清水さんに「いや〜思ったより簡単にすんなり行けましたよ」などと言いながら封筒を渡すと、郵便局の私書箱は共同で使っていて他の人の封筒も持って来てしまった様です。また翌日返しに行く事態になりました。すこし気の遠くなるような心境でしたが、とりあえず明日に備え早く寝る事にしました。
ワガドゥグより西に400キロ離れた所にボホベレバ村があります。バニキディ村とはちょうど反対の方角になりDr.イヴがプロデュースされている村で、バニキディ村同様、学校や診療所、深井戸の建設整備を始めスクール机や椅子、保険衛生教育や薬の配備、教科書、ノート、ペン、石鹸、などの配布を数年に渡りJBFAで行っています。
今回は、教科書とノート、ペンの補充とミレットマシーンによる製粉施設建設の為、村の人達と打合せをするという事で訪問する事になりました。メンバーはDr.イヴ、清水さん、ドライバーと私の4人。自動車に教科書やノート、ペン、石鹸を積み早朝に出発しました。Dr.イヴは大学教授なので、さぞかし難しい性格の方なのかと初めて会った時は思っておりましたが、自宅へ迎えに行くと日本語で「オハヨウゴザイマス!ソウソウソウ」とおどけています。見た目とは違いかなり明るい方で少し安心しました。1時間程経過してDr.イヴが突然「ちょっと電話をかけたいのだけど止まって」と言いました、周りは草原で電話ボックスは何処にも見当たりません。確か携帯電話を持っていたはずなのに、彼は外に出ると道路脇の草むらに歩いて行き小用を足してしております。間もなく戻ると「自然とのコミュニケーションをしていたんだよ。小はテレホン、大はファックス」それを聞いて皆で大笑いです。道中はDr.イヴの独壇場、おかげで村まで楽しく行くことが出来ました。
村に着いたのは午後1時ごろ、村の人達が大勢で迎えてくれ一人一人挨拶をします。村では「ポー」というのが挨拶の言葉だと教わり「ポー」「ポー」と挨拶をしているうちに、何と無く親近感が沸いてきました。奥の家がDr.イヴの住まいと言う事で、狭い通路を行くと土で作られたブロックを重ねてある塀や家が不規則に立っていて、まるで迷路の様です。その一番奥まった所に家があり、この村の中では近代的な造りです。ひとまず荷物を降ろして、一休みとソファに腰を掛け一時すると料理が運ばれてきました。器の中から何とも言えない良い匂いがします。Dr.イヴがふたを開けると鶏のソースとトーです。その後からはバケツに入ったチャパロ、彼はこれが大好きと見えて「トラディショナルビアー」と言いながら、バケツからカリバスの器に並々と汲み取り皆に振舞います。そのとき初めてチャパロと言う物を飲んで、始めの内は独特の匂いがあり、なかなか喉を通りませんでしたが、酔いが廻るとだんだん慣れて来て、ビールの様に飲むことが出来ます。ところがアルコール度数が高いのか、後から一段と効いて来てカリバス2杯ばかり飲みますと完全に酔います。トーも少し酸味があり、鶏のソースととても合っていて美味しく、村の人達や風景に包まれながらひと時を堪能させて頂きました。おいしい食事が終わり、診療所のドクターに案内され音楽室やクリニック、学校などを見学した後、イヴの家の前にあるテラスに村の主な人達が集まり会議の始まりです。Dr.イヴはさすがに教育者らしく、少し速いテンポで話します。フランス語の解らない私も、自然にうなずいてしまう様な歯切れの良い語り方で説明をしています。村の人達の色々な質問にも細かく答え、90分程で終了しました。終わると徐にチャパロを出し「シミズサン!イイダサン!トラディショナルビール!」とカリバスを渡され、もう一杯、村の人達も帰り4人で椅子に腰かけていると、ボホベレバの草原の匂いと月の明りがとても心地よく感じられます。「ここは私にとって一番落ち着く所です」とDr.イヴが大きく深呼吸をして満足そうに椅子にもたれています。電気もなく、土で作られた家は床も無く、コウモリや蚊は多いし、何処に行くのも不便な村の生活は私にはとても困難ですが、彼の勤めているワガドゥグ大学は都会の中心ですから人も多いし、バイクや車も沢山走っています。その様な所で毎日忙しく仕事をしていると、自分の生まれ育った所が一番居心地の良い場所なのかなと感じました。夜も更けてチャパロの酔い心地も手伝い眠さが増して来ました。村に泊まるのは初めてなので少し戸惑いましたが、村の人が親切にバッテリーに蛍光灯を繋いでくれたり、バケツにお湯を汲んでくれ、それで汗を流したりして、これで何とか眠ることが出来そうです。
ボホベレバは雨量の多い所なので夜は涼しく、眠るのにはとてもよい環境ですが蚊も多く、防虫スプレーをつけていないと体中刺されてしまいます。しかし村の人達はその様な物はないし、どの様に過ごしているのかとても不思議です。朝になり部屋の外に行くと、村の人達はもう働いていました。男の人は畑仕事で、女の人は臼でとうもろこしを搗いたり、ポンプで井戸水を大きなたらいに汲み運んだりとても忙しそうです。「ボンジュールDr.」とDr.イヴに挨拶をすると「イイダサン、オハヨウゴザイマス、ソウソウソウ」、とチャパロの入ったポリタンクを差し出します。「ノ、ノ、ノンメルシー」、さすがに昨日の余韻が覚めやらぬところなのでお断りしました。朝食を頂き、私達が学校へ行くと夏休み中でしたが先生達が待っていました。そこで車に積んできた、教科書とノートやペン、石鹸を渡しブルキナファソの第二の都市ボボディュラソへと向かいました。
ボボディュラソは丘陵地であるせいか、何と無くワガドゥグとは雰囲気が違います、昔はジュラ族の都として栄えた所でも在り、近くにはいくつかの河川が在り、近隣の町バンフォラは水の都としてとても風光明媚な所です。また此処にはDr.イヴのセカンドハウスが在ります。お父さんの住んでおられた家で、お父さんがお亡くなりになり今約半分はボボディュラソで生活をしているそうです。市内の入るとまず目に入るのがイスラム教の巨大なモスクで、土のブロックで作られたモスクは古くからの物で、ボボディュラソの象徴でもあるそうで、近くに行くと日本の神社仏閣のような霊験あらたかな心境になります。それからボボディュラソ駅(SITALAIL)も白い大きな建物で、美しい造りです。残念ながら、隣のコートディボアールが内紛で国境閉鎖をしているため、鉄道は不通になり今は使われておりません。駅の近くには大きなマルシェ(市場)が在ります。後楽園球場くらいの敷地に色々な店がぎっしりと並んでおり、中に入ると間口3〜4メートルくらいの店が軒を並べ、上野のアメヤ横丁のような感じで、衣、食はもちろん電気製品、工具、薬、服の仕立屋その他あらゆる物が売られています。私達は駅前のレストランで昼食を取り、今日はこの街のホテルに宿泊をすることになり、Dr.イヴのお勧めで繁華街の中ほどにあるホテルにチェックインし、時間も余裕があったので彼の家に行くことになりました。
Dr.イヴの家は市街からはちょっと離れた所に在り、白い壁に囲まれた家はモダンな造りで、中に入ると大きな居間には高級な家具、いかにもハイクラスな佇まいで、音楽が好きと見えてサイドボードの横にはコンポーネントステレオがあり、窓の外のガレージにはドイツ製の高級車、村の家とは相まってこちらは近代的な暮らしです。都会と田舎と郊外に3つも家がありなんとも羨ましい限りです。
翌日、ボボディュラソの近くのクンセニという村に行き教科書やノート、ペン、石鹸を配布した後、Dr.イヴがボボディュラソで組織している「SIDA KA TAA」というアソシエーションの事務局に行き色々とお話しを聞くと、「SIDA」はエイズのことで、「KA TAA」はジュラ語で「出て行け」という意味らしく、世界中で深刻な病気もこの国では感染者が特に多いそうで、ボボディュラソで毎年コンサートを催し音楽を通してエイズの感染防止を呼びかけており、著名な会社、団体の協力や外国のミュージシャンも参加するなど年々大きなイベントになりつつあるようです。
この活動を通して感じたことですが、村では農民が毎日の生活の中での食べることだけで精一杯で、居や住はとても質素です。日本も嘗てそうであった様に、ブルキナファソの農工商の内92.2%を占める農業就労者の生活向上が、この国を豊かにするきっかけのひとつと言っても過言ではないと考えます。農民が少しでも豊かになれば、国も豊かになり、学校や道路もよくなります。一日も早く村の人達が感染症やそれを治す医療処置はもとより、学校に行けない子供達が一人でも少なくなるよう国の農業政策の進展が期待されてなりません。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第六章)
<クリニック>
清水さんは帰国の準備や日本からの物資輸送に係わる事柄、日本への民芸品の買い付けと慌しく動き回っております。そのようなある日、マダム.ウエオドラオゴの紹介するイミオグという村を視察に行くことになりました。イミオグ村はワガドゥグより北に約100キロの所にあり、小高い丘の多い所で、ここでは金の採掘が盛んに行われています。村に行くと木陰で子供が一人寝ておりました。どうやらマラリアにかかっていたようで、側には村の薬草で作られた薬が置いてあります。この薬はアカシア、ニム、パパイア、エカルプトゥスの葉にゴヤーブの実を混ぜて擂り潰し水に溶かして飲んだり、鍋に入れ煮立て頭から大きな布をかぶり蒸気を吸って汗を出したりしますが熱を下げ体力を回復させる効果があり、村では昔から使われているものだそうです。マラリアというと私達にはとても重い病気のように思われますが、この国の人はインフルエンザ程度にしか思っていないようです。またこの村の飲料水は10メートル程の井戸で、この水はギニアウォームの混在する可能性があり、飲料水には向いていません。少し離れた所には赤ちゃんを産む分娩所が在り、土を固めたブロックの建物で6畳間くらいの広さで、その中には同じ土で固めた一畳くらいの分娩台があり、薄暗く地面には水が溜まっており衛生的にはとても良くありません。ここの人々は生まれた時からこんな苛酷な環境の元で生活しているのかと思うと、5歳未満で死亡する割合が日本は100人中0.5人に対して16人、平均寿命が46歳ということも不思議ではない事と感じます。同じ人間として生まれ、場所や時代により運不運があることは事実と思いますが、21世紀の今日で、これほどかけ離れた生活を見るのは衝撃に近い印象を覚えると共に、せめて産婦、乳児への1日も早い環境改善を切望して止みません。また、この村ではエイズの感染者が多く、年に6、7人もの人がエイズで亡くなっているといいます。都会ならともかく、人口の少ない村でこれだけの人が亡くなるということは、この国をこれから支えて行く若い人々にとって、とても深刻な社会問題でもあります。私はこの村を視察してブルキナファソの縮図を見た様な気が致します。しかし子供達の笑い顔や、炎天下の中で汗をかきながらもくもくと働いている人々の姿を見ると、アフリカの人々のダイナミックなエネルギーを感じます。この様に過酷な環境でも逞しく生きていくことに、自分を含め今の日本人には何かが欠けていることを教えられたようにも思えます。
村から戻った翌日、いつも私より早く起きているはずの清水さんが起きて来ません。きっと昨日の疲れが残っているのかと思いながら事務所の掃除をしていますと、部屋から清水さんがタオルケットを体に巻いて出てきました。「マラリアにかかったみたいです」。「えっ!マラリアですか!」私は驚いて清水さんを見ますと、顔色も蒼白く熱があるみたいで小刻みに震えています。これは大変と思いとりあえず行きつけのクリニックに急いで行くことになりました。乗り合いタクシーに乗り15分程の所にそのクリニックがあります。玄関に入ると60代位と30歳位の女性が椅子に腰掛けてピ−ナッツを食べております。患者さんの付き添いの人がいるのかと思い、受付は何処かと辺りを見回してもそれらしき所はありません。友達のラミンが何かその人に話をしています。そうするとその女の人は奥の部屋に行き、一時すると戻ってきてドクターは今外出中なので待ってくれという事でした。清水さんは相変わらず熱がある様でぐったりとして辛そうです。2人の私服の女性はナースだったようで、体温計を取り出して熱を測るよう清水さんに手渡しました。それから1時間位待っている間に、いろいろな行商の人が来て物を見せては話をしたり、買ったり食べたり、患者は清水さんだけだったのですがナース達は多忙です。ドクターが来て診療室に案内され、体温と問診の結果やはりマラリアであるということで、ドクターが慣れた手つきで処方箋を書きナースに渡し約5分で診察終了です。
このような経験は私も日本の病院でありました。胸の間に硬い物があるので腫瘍でも出来ていたら大変と思い、母のかかっている大学病院へ行くことにしました。受付をして外来の待合所にいくと大勢の人が待っています。2時間後やっと診察をしたもらい採血をするところに行き、レントゲンを撮るというのでその所へ行くと、そこにもまた何人も待っており、それが終わると再び診察室の所でしばらく待ち、最後にドクターの言葉は「来週結果が出るのでまた来てください」。10時に受付をして帰りは午後3時でした。一週間後、犯罪者が最終判決を受ける時のような沈痛な気持ちで病院へ行き、診察室の前で再び長時間待ってナースに呼ばれ、やっと中に入りドキドキしながらドクターの説明を聞くと、レントゲン写真を見ながら「これは肋骨の間にある軟骨です。これは誰にでもあるもので特に問題はありません。これからもお大事に」と言う事でした。今までの心配は一瞬で吹き飛んでしまいましたが、同時に何と無く今の病院の在りかたに不満を感じます。確かに検査は大切なことですが、普通私のような症状でしたら問診、触診でも充分わかるはずですが、検査ということで多くの時間とお金を払うのは、単なる金儲けしか考えていないのかと疑いたくなります。
話を戻しますが、ナースにドクターの処方箋にある薬を近くの薬局で買って来るように言われ、早速買いに出かけました。急いで薬局で注射と抗マラリア剤と解熱剤を買って帰り渡しますと、60代のナースがゆっくりと落ち着いたしぐさで注射器にそれぞれの薬を入れ準備をします。動作が遅いのは慎重なのか高齢の為かは判断できませんが、熱で震えている患者の方はあまり意識せずマイペースに事を運んでいます。玄関のところが待合兼処置室で、口の中にはまだ食べ物が残っているらしく、口を動かしながら注射を持つ手が少し震えています。こんなことで大丈夫なのだろうかと見ていると、アルコールで消毒をして注射針が清水さんの血管の所に近づくと、ナースの震えがピタッと止まりました。「さすがベテランのナースは素晴らしい」と別の意味で感心してしまいました。
処置が終わり、まずは一安心ということで事務所に戻り、清水さんはベッドで休んでおりますが熱が高いのかとても辛そうです。翌朝も熱が下がらず再びクリニックに行くことにしました。病院に行くとベテランナースが、昨日の夜に来いといったのにどうして来なかったのかといっており、どうやら解熱剤を夜に注射することになっていたのを聞き漏らしてしまったようでした。彼女は処方箋のところに、またいくつかの薬を書き、買ってくるよう言いました。聞くと点滴のようで、私とラミンは急いで少し離れた所にある大きな薬局へタクシーで向かい、薬を買って戻るとベテランのナースは出かけているらしく、若いナースに渡すと彼女は早速点滴の準備をし始め、清水さんの腕に針を刺しましたが、彼女はまだ経験が浅いと見え2、3回やり直し、やっと血管の中に入りました。別の部屋のベッドで点滴をしていますが、中は熱く蚊も沢山いて、もしこの中にマラリアを持った蚊がいたらまた感染してしまうのではなどと思いながら、清水さんの点滴が終わるのをひたすら待っておりました。
点滴が終わりまた翌日ということで事務所に戻りましたが、清水さんは相変わらず熱があるらしく元気がありません。数ヶ月前にもマラリアにかかったそうで、そのときは注射をして1日で熱がなくなったそうですが、今回はちょっと強いようです。翌日になり幾分熱が下がったようで、顔色も大分よくなっておりました。
再び病院へ行きまた点滴です。やはり昨日と同じ若いナースが担当です。彼女は早速準備し、清水さんの腕に針を刺しますが、なかなか血管に入りません。数箇所やり直しているうちに、とうとう清水さんも我慢できなくなり、若いナースに抗議をして点滴をはずしてしまいました。この国でもナースを養成する学校はありますが、日本のように高度の医療知識や経験を修得しているナースは少ないようです。また国唯一のワガドゥグ大学には医学部はあっても付属病院がなく、ドクターもフランスなどで医学を学ぶようで、外国のほうが高度な医療が出来るうえ収入もよいのでこの国に帰る人は少ないようです。この国は医師1人に対しての人口が日本は543人に対して240,000人と遥かに不足しております。そのために治る病気も手遅れになってしまったり、お金がないため病院に行くことが出来なくて、亡くなる人がとても多いことも事実です。
3日目になって清水さんも大分回復してきたようで笑顔が戻ってきました。今日は一人でクリニックに行けるということで出かけていきました。しばらくして帰ると、また再び若い看護婦に注射をされたらしく、乱雑で身に危険を感じたということでした。腕を見るとあざが沢山あり、熱があるうえに何回も痛い思いをして本当にお疲れ様と思いました。
清水さんが日本へ旅立ち、いよいよ独りの生活になりました。今まで、何もかも清水さんに頼っていた私にとって、これからのことを考えると何とも心細い心境になると同時に、一日も早くこの国の生活に慣れなければいけない、そして駐在員としての職務を果たさなければならない、そして何のためにこの国に来たのか、自分で今出来ることは何か、言葉もろくに出来ない私にとってこの国で生きていけるのだろうか、独りになって考えると今までの人生が小さく2次元的なものであったかが悔やまれます。日本にいるときは全て整った環境の中で、物事を比較判断して来ましたし、頼る人もたくさんいて、それが当たり前の生活でもありました。自分で飛び込んだ世界がこんなにも深く、そして大きな物とは思いもよらないことでした。それはブルキナファソの環境が、あまりにも日本のシチュエーションと違うことです。税収が少ないためか公共施設は殆ど整備されてなく、道にはごみが到る所に捨てられ、下水道も無く汚水が道に流れています。街には仕事が無く道端にごろごろと寝そべっている人や、子供はもちろん物乞いをしている人達も多くいます。それは今日の日本も失業者が多く、ペーパーハウスでの生活を余儀なくされている人が多くいますが、日本は仕事を選ばなければ何かあるし、それが無くても何らかの救済措置がありますが、こちらでは全くありません。健康保険や生命保険に入っている人は少なく、もし不慮の事故で身体障害になってしまうことは日本とは比較出来ないほどの大きなハンデキャップとなってしまいます。
何日か部屋にこもり、色々と考えていましたが、考えていても何も始まらないと思い、まず自分で今出来ることは何か、それは近くのマルシェに行き野菜を買い食事を作ることです。いつも行きと帰りに出会う人に挨拶をして、マルシェの人と会話をするうちに、だんだん外に出ることが億劫でなくなり、むしろ楽しみに思えるようになってきました。
いつも近くの道路沿いで5〜6人の若い人達がお茶を飲んでいます。その中には事務所を借りている大家さんの息子フィデルがいました。フィデルはメディカルドクターを目指している学生で、日本にもいるような音楽好きの青年です。ある日、フィデルがお茶を飲まないかというので思い切って若者の中に加わりお茶を御馳走してもらうことにしました。こちらの人達が普段使う言葉はモシ族の言葉でモレ、またはモシ語と言って周りはモシ語が飛び交います。私には何を話しているのか一向に解からずただ周りの人が笑うと合わせて笑うという状況です。少しして村で飲んだチャパロ(ドロー)を思い出し「ドロー セパボン」というと飯田はドローを知っているのかといいます。「ウィ ジュコネ ドロー」というと一人の青年が「500セファー出せば買って来てやる」と言い出しました。そこで私は酒もたまには人間関係を作る良い道具だと思い、思い切って1,000セファーを出して、これで買ってくれと頼みました。一時すると青年は4リッターのタンク2つを持って戻ってきました。内心こんなに沢山買えるのかと思うと同時に、こんなに飲んで大丈夫なのか心配になりましたが、若者達の嬉しそうなしぐさを見て自分も何とか仲間になれたようで心が弾みます。そしていよいよ宴会の始まりです。
カリバスというヒョウタンに似た器を皆で廻しながら少しずつ飲みます。酒は、日本では少し強いほうでしたので私は少しほろ酔い加減で、日本には「イッキ」という飲み方があるといって飲み方を教えました。すると若者達はもう止まりません。皆で「イッキ!イッキ!」と言いながら、何度も繰り返すうちに8リッターのドローは瞬く間に無くなってしまいました。気が付くと、地べたに寝ているものもいれば、隅のほうで「ゲーゲー」とやっている者もいます。「何だ?皆もう酔っ払ったのか、不甲斐無い奴らだ」などと言いながら、事務所に歩いて行ったことまでは覚えていますが、それから先は全く白紙で、気がつくと翌日の10時ごろで事務所のソファーで目が覚めました。
昨日の二日酔いで気分が悪く、水を飲み暫くするとフィデルが来てニコニコしながら私を見ると「飯田は酒が弱い」などというので少しムッとして「ドロー セパボン」と言うとまたフィデルが大笑い。そのうちに大家さんの家族が来て昨日の話で持ちきりです。「この次は
大家さんの家族を御紹介しますと、ムッシュバルコマはこの家の主で62歳、税務署を退職し現在運輸会社の重役です。働き者でほかに4箇所の貸家があり、車はもちろんメルセデスで大きいお腹はいかにも主の貫禄があります。とても陽気で家族的な人柄です。
奥さんのマダムバルコマは56歳、良妻賢母を地で行っているような人でお金持ちの奥さんの割には派手さが無く、家の要として家事をする傍ら洋裁が得意で、いろいろな人が服を作ってもらいに来ます。
長女のアンドレアは35歳、バス会社に勤務していてロスモンドという7歳の娘がいます。いつも仕事で忙しそうです。
次女のナターシャは、御主人と10ヶ月になる娘のアンドリンと共に隣の国マリに住んでおり、時々実家に戻り2ヶ月ほど過ごしていきます。やはり生まれたところは一番良いのでしょうか、気さくな性格でいつも賑やかです。
<フィデル>
フィデル・バルコマ(20歳)、6人兄弟の末っ子で、将来は薬剤師を目指し目下のところ専門学校にて学業に励んでおります。理数系が得意で、家では大きい黒板を前に置き、夜は屋外にある蛍光灯のところで勉強をしています。ブルキナファソでは、学生がいる家には庭に黒板がおいてあるところが多く、夜は静かで涼しい屋外で勉強をするようです。日本では、学生は自分の部屋があり、エアコンやパソコン、その他いろいろな電気製品をそろえて至れり尽くせりの環境ですが、この国ではなかなかその様には行きません。家族が多いので個室はありませんし、電気製品や電気そのものが高価なので、よほど恵まれた家庭でもなければ日本のような環境では勉強することが出来ないのです。フィデルに聞いてみると、ブルキナファソは仕事が少ないし給料が安いので、将来はアメリカやヨーロッパで仕事をしたい。そして、そこで結婚し暮らしたい。だからどんなに難しくても勉強するんだといつも言っています。確かに日本とは大きく違う社会環境の中で、彼なりに考えたことなのでしょう。この国の多くの人達は、ヨーロッパやアメリカ、日本などの先進国への憧れは強く、私もフィデルに日本人ということでいろいろと日本の様子などを聞かれます。ブルキナは7階建てのビルがあるけど日本はもっと大きなビルがあるの?とか、東京にはこの国の人口と同じくらいの人が暮らしているんだって、日本には何処の村にも学校や病院があるんだって、など日本では殆ど話にならないことも聞かれます。私は日本は確かにいろいろ便利な物がたくさんあるけど、その便利な物を買ったり使ったりするにはお金が必要で、この国の人の何倍もお金を持っていないと普通の生活が出来ない。そのために、日本では人々が子供のときから競争して勉強をし、働くようになってもそれは変わらない。その競争に負けることは、日本ではとても不自由な生活に繋がり、それはブルキナファソで生活をするよりも過酷なことになってしまう。もしこの国の人が日本に行って生活をしたなら、殆どの人が1ヶ月も生活が出来ないかもしれない。なぜなら、例えばこの国の社会システムは何も無いところに山を築き、その山の頂点を目指して登って行くのに対し、日本の社会システムは高い所から篩いにかけられる様なものだと話します。この国には61の言葉があり、フランス語が公用語として使われていますが、小学校に行かないと勉強できませんので、学校の無い村や学校があってもお金がなく働いている子供も多く、この国では山どころか丘を築くのさえ難しいのが現状です。10歳から15歳の子供が、楽しげに牛やヤギを追っている姿や街で卵や果物を売っている姿を見ると、この子達の夢はなんだろうとふと思ってしまいます。日本の子供に将来の夢はと聞くと、よく宇宙飛行士やパイロット、医者や教師などと言いますが、ブルキナファソの子供でそのような夢を語ることが出来る子供は、大臣や医者の子供でもないといません。大体がどこかで働きたいとか、サッカーの選手とか家族と暮らしたいとか、夢と現実との大きな開きがあるのを理解しているのか、それでも村の子供やワガドゥグで働いている子供は厳しい現実の中で元気に毎日暮らしています。
ある日フィデルが訪れ、明日友達の家で結婚式があるから飯田も一緒に行ってみないかというのでブルキナの結婚式を見ておくこともいいと思い誘いに乗ることにしました。翌日、彼の友達と共に6人3台のバイクで30キロほど離れた村へと向かいました。村はボボデュラソに通じる国道沿いにあります。ワガドゥグの料金所を過ぎると景色は変わりアフリカの自然が広がります。私は日本にいるときからバイクが好きで、よく友達と共にツーリングに出かけたものです。私のバイクは中国製で50ccの普通の物ですが、フィデルのバイクは、フランスのプジョー製のバイクで自転車にエンジンが付いている物でブルキナの人達にはとても人気があります。アフリカの大地の風を体中に感じ、気分は爽快、皆で笑いながら私も矢沢エーちゃんのルイジアナなどを口ずさみながらいつの間にか気持ちは青春時代に戻り、3台のバイクは目的地にむかってアフリカの原野を走ります。
40分くらい走ったところに会場はありました。沢山人が集まっています。新郎新婦の顔も知らない私は、何と無く部外者ではないのかと言う不安に駆られフィデルたちの後について家の中に入りました。まもなく両親と思える人が来て何かを話しています。このような場合は何と言ったらよいのか解からずにただ笑顔を作るだけが精一杯でした。その後、広い庭に行くと運動会で使うテントが4〜5張り並んでいる披露宴会場があり、椅子に座るとフラッグと言うビールを貰いました。フィデルと仲間の青年達は上機嫌、あっという間に飲み干すともう2本目を飲み終わろうとしています。飯田ももっと飲めと言われますが、日本の結婚式ではお祝いを持って行き、飲み物や食べ物を戴きますがただで戴くのは気が引けます。おまけに日本人は私一人なので何と無く目立っているし浮いてしまっているようで、来て失敗したと後悔しているとフィデルたちは3本4本とビールを腹に流し込んでいます。
「何で飯田は飲まないの」、もう酔い始めているのかフィデルの声がだんだん大きくなっています。アトラクションのジェンベの演奏と踊りが始まりました。青年達は水を得た魚のように踊りだし、何処から持ってきたのかPASTISと言う酒を飲んでいます。これがとても強い酒で、飲み慣れない味なので少しずつ飲んでいると、又注ぎ足され私も周りの雰囲気に釣られ陽気になってきました。どうやら私の心配は行き過ぎだったようです。ブルキナの人達は、しきりに一緒に踊れと促します。模様見真似で踊っていると皆が笑って拍手をしてくれ、いつの間にか自分も仲間に入れたという満足感でいっぱいです。1時間ほどするとクライマックスで、新郎新婦が皆輪になった中でジェンベに合わせ踊ります。どちらも幸せそのもので輝いていて微笑ましいもので、ブルキナでも同じだと感じました。
さてフィデルはというとまだPASTISのビンを抱えています。顔を良く見ると、目が少し内側によっているように見え、踊りながら飲むペースが速くなっています。踊っているのかよろけているのか、まもなく新郎新婦が空き缶の沢山付いた車に乗り込み新婚旅行に出発です。周りの人達もバイクや車やトラックに乗り、ワガドゥグの空港まで送りに行くようです。道中は皆一斉にクラクションを鳴らし、他の車の通行には一切注意を払いません。日本なら飲酒暴走行為そのもので、途中警察もいますが無視をしています。フィデルもバイクのクラクションを思い切り鳴らしながら大きい口を顔いっぱいにして蛇行運転をしています。私はこれが良いのか悪いのかは別にして、ブルキナファソの人達の大らかな雰囲気に飲み込まれ、日本にいたころ、いつも何事にも神経質になっていたことがうそのように思えてきました。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第七章)
<エステル>
エステルは24歳バルコマ家の4女、看護婦になることが夢で現在看護学校に通っています、とても人懐こく穏やかで毎朝起きるとまず彼女がボンジュールと声をかけてくれます、彼女の趣味はおしゃれをすることの様で1日に多いときで3回服を取り替えます、毎日お姉さんと交代で料理を作ったり家の掃除をしたり勉強はあまり好きではないようで時々教科書を私のところに持ってきては「飯田これ何か知っている?」などといいながら「私の彼はアルノって言うんだけど銀行員なんだ、けれどとても浮気者」などと言う話になってしまいます、「なんで?」と尋ねるとこの前彼の家に遊びに行ったら他の女がいて親しそうにしていたと言うのです、私は「それは単なる友達できっとエステルのことが一番好きなんだよ、だからあまり気にしない方が良いよ」、と言うとエステルは気が休まったのか彼に電話してみると言って家に帰ります、また何日かすると事務所に来て「このまえミサで教会に行ったときアルノが知らない女といたの、見ない振りして家に帰ってきちゃった」、すると側で聞いていた弟のフィデルが「アルノは良くない、女がいっぱいいる」とエステルを横目で見ながら言いますので、私はすかさず、「アレ!このまえフィデルは学校に何人も彼女がいて俺は女にもてるって言っていたんじゃなかった?」そうなると強いのはエステルで「アルノよりお前の方が一番悪い!」3人で大笑いです。
時々バルコマ家の夕食に呼ばれます、夕食の席ではムッシュバルコマの威厳は強く、さすがに一家を養っているだけのことはあると感じます、「飯田!フォマンジェ、フォマンジェ」と言いながらブルキナの地ビール、ブラキナをおいしそうに飲みます、私が「今日の食事はエステルが作ったのですか」と聞くとエステルが、「そう私が作ったの」、というと少しはなれた所にいるお姉さんのフランソワーズが「それは私が作ったんでしょ、あなたは野菜を切っただけ」、父と母が口を揃えてフランソワーズは料理が上手だけどエステルはだめ、と言うと「本当に作ればお姉さんより私のほうが上手よ、お姉さんに悪いからへたな振りをしてるのよ」、と言うとフランソワーズが大きな石を持ってエステルに近づいて来ます、エステルはすかさず笑いながら外の門のところに身を隠し、「怒った、また怒った」とフランソワーズをからかいます、「エステル、いい加減にしなさい!」とムッシュバルコマの雷が落ち一件落着、「エステルは小さいころからに要領が良いんだから」、フランソワーズが苦笑しながらまた調理場のほうに戻っていきました。
エステルの笑い声にはとても特徴がありますお腹のそこから大きな声で「ワッハッハッハ」と笑った後に高音で「ヒー」と言います、これが事務所にいると一日に何回か聞くことが出来ます、どんなに落ち込んでいるときでも彼女の笑い声を聞くと思わず笑ってしまうと言う不思議な魔力があります、事務所は私一人なのでフランス語で書かれた難解な文章を辞書と首っ引きで解読をしているときに隣の家から「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と聞こえてきます、それに連られて私のお腹から笑いがこみ上げてきて「ゥワッハッハッハッハー」、これが1日3回は日課です。
その人がいると何と無く楽しくなるという人がいますが、そのような作らない自然な魅力を持っている人はとても人徳のある人だと感じます、皆顔をしかめて話すより楽しく話をした方が良いに決まっています、もし逆にその人がいるために周りを不愉快にしてしまうとしたらどんなに人生において損をしているのかとも思います、私も出来る事であればエステルのように心穏やかにいつも周りを楽しくさせるような自然な魅力のある人になりたいと思うと同時にブルキナファソで人生の機微を言葉や人種、環境の違うエステルから教えていただけるとは思いませんでした。
それから私は何とかしてエステルを笑わそうと、それが趣味であるかの様になっていました、エステルが来ると言葉ではだめと思いジェスチャーや表情で何とか笑わそうとするのですが微笑むくらいまででなかなか笑ってくれません、バルコマ家には番犬が居ります家の人以外の人が来ると牙をむき出し今にも襲い掛からんとするので何とか慣ついてもらおうと努力をしていましたが思うように行きません、エステルがよく犬のことを「イベ!、イベ!」と言っているのでこの犬の名はイベと言う名前だったのか、それから犬のことを見る度に「イベ、ヴィェン、ヴィェン」と呼んでいましたが犬は顔をしかめ一向に来ません、ある時エステルにイベはいくら呼んでもこっちに来ないけど何で来ないのと聞きましたら大きな声で「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と笑い出しました、私はどうしたのかと不思議に思いながらも連られて笑っていますと暫くしてエステルが笑い疲れて表情をこわばらせながら話し出しました、「飯田、あの犬の名はトゥパスと言うのよ」私が「でもエステルはいつも犬のことをイベって言っているじゃない」と言うとエステルは又ワッハッハッハ、ヒーと笑いながら「イベはモシ語で行けって言うことなの」、これで謎が解けました、いくら呼んでも来ない理由が、日本語に訳すと「行け!、来い、来い」といっていたのですから犬も顔をしかめるはずです、この時だけは私も暫く笑えませんでした。
ブルキナファソの1日はとても早く5時には起きて掃除や朝食の準備が始まります、お手伝いさんがいますが大体は村から出てきている人で13歳から18歳くらいの女性が多くフランス語はあまり話せない人が多いようで1ヶ月の給料が2000フランくらいですが食事と寝るところはあるのでワガドゥグに出稼ぎに来る人は多いようです、村の仕事と言えば男性は農作業、女性は食事に関する仕事、子供は10歳くらいから水汲みや燃料にする枯れ枝集めなどを行い、週に何度か女性達は近くのマルシェに行き自分達で作ったものを売りお金に換えていますが1日の売り上げはほんの僅かのようです、ですから少しでもお金を稼げるところがあればとワガドゥグに来る若い女性も多く居ります。
さて、バルコマ家でまず1番早く起きるのは勿論お手伝いさんです、毎朝5時にイスラムのモスクのスピーカーから朝のお祈りの声が聞こえてきます、すると間も無く庭を掃く音、こちらの箒は柄がなくサーガという40センチほどの真っ直ぐな細い枝を直径5センチ位に束ねた物で腰を屈めて器用に掃き慣らして行きます、6時頃になるとムッシュバルコマがプラスチックのヤカンを手にもち外のトイレに行きます、ブルキナの人達はトイレットペーパーを使う人は少なく殆どの人は御尻を水で洗います、私も何度か試みましたがとても心地良く考えてみればこちらの方が清潔なのかも知れません。
トイレが終わると大きな声で皆を起こします、7時になると長男のボリスと次男のフィデルが学校に向かいます、学校は7時半から始まりますのでとても慌しい様子です、マダムはトウモロコシの粉を乾燥させるために大きな台の上に広げていると3女のフランソワーズは洗濯物を井戸の所に運びます、7人家族の洗濯物はとても多くおまけに女性は2〜3度着替えをするので洗濯物は毎回山のようです、お手伝いさんは掃き掃除を終わると洗濯に執りかかりますが洗濯物が多いときは洗濯を専門にする人も来ます、4女のエステルはムッシュバルコマの乗っている車の掃除が朝の仕事のようです、いつも車を拭く前に運転席で車のカセットデッキに好きな歌を入れ聞いていますが聞いているうちに気持ちが良くなり又寝てしまうことが多くムッシュバルコマが出かけようと車に行くとエステルが中で寝ているので結局ムッシュがぶつぶつ文句を言いながら自分で拭くことになってしまうようです。
昼になると学校に行っていたムッシュバルコマ、ボリス、フィデル、小学生のロズモンドとお母さんのアンドレアが戻ってきます、12時から3時までは昼休みなので昼食後は体の汗を流し昼寝をします、やはりブルキナファソの自然環境で日中の暑さは厳しく特に5月の頃の気温はは50度にもなり汗とともに体力の消耗が激しく屋外での直射日光は熱中症にもつながりますので社会環境もこの様な習慣になっていると思われます、昼寝を終えるとそそくさと又職場、学校へと向かいます、終業時刻は5時半です。
ブルキナには行商をしている人が多くいます、バルコマ家は家族が多いためか朝からいろいろな行商の人が訪れます、まず朝に来るのがガーナパン屋さんブルキナはフランスパンが普通ですがガーナパンと言われるいわゆるブレッドもあります、主にガーナからやって来た人が作っていますがやはりガーナは昔イギリス領だったためかと思われます、次に来るのが古着屋さんでブルキナでは古着の事をYUGYUG(ユグユグ)といいますジュラ語で洗うという意味だそうです、女性物と男性物、下着類、布類とそれぞれ別の人が売っており、古着はインド製やパキスタン製が多くジーンズは1500F(300円)、シャツは1000F(200円)位です、この人が来るたびに私にも声がかかり飯田も安いから何か買えばといわれますが私の好みに合うものが無いので丁重にお断りします、それからミシンの修理屋や果物屋と行商も多種様々で、この人達は殆どが親方(パトロン)がいて仕事を貰い1日中売り歩きます、その他街に出ると本、メガネ、アクセサリー、薬、ビデオCD,CDレコード、水やジュース、それからとても多いのがパンクの修理屋です、バイクや自転車が一般の乗り物で日本のようなチューブレスなどというタイヤではなく普通のチューブ入りのタイヤでこれがあまり良い品質ではないのですぐパンクをします修理代は1箇所100フランですが修理するところを見ていないと穴の開いていないところも修理をしてしまい5箇所パンクしていたなどと言われますので気が抜けません、OUAGADOUGOUには沢山のオフィスビルや商店などがありますがそれぞれに専用駐車場はありません、また公共駐車場もありませんので入り口の近くに車やバイクを駐車します、するとそこにいる人にチケットを渡されますその人は駐車している車やバイクがいたずらされたり盗まれないように見張っている仕事なのです、車は100フラン、バイクは50フランでその人は店やオフィスとは関係が無く個人で事業をしているようです、店やオフィスとなぜ関係が無いのかを聞きますと、もし盗まれたときに店やオフィスの責任にならない様にだそうです。
まだまだ職業は沢山ありますが主な職業を紹介してみました、いつもこの人達を見ると熱い中歩いて回るのはとても大変なことだし売り上げはどれ位あるのか計り知れませんが怪我や病気などになったときは何の保証も無く、この国では健康ということが最大の資本であることをつくづく考えさせられました。 <続く>
中年派遣員奮闘記(第八章)
<ポとサピナ村>
POから西に10キロ程行くとチャカネという村があり、此処にはガーナから最初に移り住んだグリシー族の酋長の家があります。家はもう大分朽ち果てていて訪れる人はあまり居らず、家の大きさや物置に残された古い装飾品などを見ると当時の隆盛が想像されます。そこから20キロほど南に行くとナジンガ自然公園に至り、此処には象を始めマントヒヒやガゼルその他多くの動物が保護されていてブルキナを訪れた人やガーナからも観光客が訪れますが、3月からは狩猟が解禁になるので多くの外国のハンター達が訪れ腕を競います。サピナ村はポから西に7キロ程行った所、地形的には周りを丘で囲まれた盆地のような所で、住民は1.000人程で電気はなく学校や診療所も近くにはありません、村ではミレットや米の栽培が行われています。私とこの地の始めの拘わりですが、POは友達のラミンの生まれ故郷で、予てより一度行ってみないかと誘いを受けていたこともあり、ある日、日帰り旅行気分で行くことにしました。
朝7時のワガドゥグ発のバスで駅には沢山の荷物を持った人達が大勢いて、バイクや家具などをバスの屋根に積んだ大型のバスがあります、まずはチケットを買いに販売所に行き名前を告げます、忙しいためか無愛想な中年婦人が居て「チケット2枚下さい」というと「何処まで?」私もムッとして「PO!」と言うと「名前は?」「飯田!」「エ!何?IDA?」「IIDA!」中年婦人が少しニヤケ顔で「この名前はブルキナでは女の名前だ」などと言うので私は余計腹が立って「日本では家族の名前だ」と説明をしながら10.000Fを渡すとまた婦人は険しい顔になって「何で1.500F(現在は2.000F)なのに10.000F渡すんだ、お釣りが無い!」と言います、しかたがないのですこし待ってからお釣りを受け取ることにしました。日本なら自動販売機がありこのような無駄な労力は要らないのにと思いながら待っていますとバスの発射時刻になりバスの入り口で係りの人が乗客の名前を読み上げています、急いでお釣りを受け取りバスの乗車口に行くと沢山の人が集まっていて名前が良く聞き取れませんそのうちに「イダ!、イダ!」と何回も読んでいるのでチケットを差し出すと係員も「IDAは女の名前だ」などというので大きな声で「I I D A 、イーダだ!」と教えていますと周りの人達が中国人か等と聞きますので「私はジャポネだ!」バスの乗るのにこんなに苦労をしたのは生まれて初めてです。 漸くバスが走り出しやれやれと思いきや後ろの10代の若者達4〜5人が故郷に帰るので嬉しいのかバカンスで旅行に行くのかは解りませんが歌を歌ったり大きな声で笑ったりはしゃいでいます、私は先ほどの心の疲れを癒そうと少し寝たいと思っていましたが後ろが煩くて寝ることも出来ません、暫くすると横に座っていた人も私と同じ心境だったらしく大きな声で「静かにしろ!」と怒鳴っています。一時は沈黙をするのですが30分もすると又はしゃぎ出します、そういえば私も10代の頃、友達と一緒に旅行をした時は周りのことなど考えずにいたことを思い出し、私もやっぱり中年だな、などと考えながら暑さと若者達の騒音の中に身を委ねる事にしました。
ワガドゥグを出て2時間半、バスはPOに到着しました。まずPOで目に付くのは軍服を着た人が多いことです、POはガーナとの国境が近いので大きな軍の基地が2つあり、以前はコンパオレ大統領もこの基地に長年居た事もあるそうで今もその住宅がきれいに保存されています。バスを降りるとラミンから何人かの人を紹介されました、ラミンの兄のババ、サピナのアリラ、ウェニュャ、Me.エリザベットです。彼らはBIEN VENUE M.IIDAと笑顔で親切に迎えてくれ取敢えず近くのレストランに行き話をすることになりました。ババはラミンの兄と言うことで顔も良く似ていて家具を作る商売をしており、アリラはサピナで農業を営んでいて一見強面でギャング映画にでも出てきそうな顔立ちで、ウェニュャもサピナで農業をしておりいつもニコニコ顔でアリラとは対照的です。いろいろと話をしていくうちに彼らは村に案内をしてくれると言うことになりました。バイクをチャーターして行くという事で待っている間に食事をすることになり、ラミンが此処で美味いのがGHANAトーだと言うことでPO名物を戴くことにしました。作る所を見ようと思い店の前に行くと臼のような物と杵のような丸太があり茹でたヤム芋を臼に入れ餅搗きと同じようなやり方で搗き込んで行きます、これは通称フトゥと言いますが、搗く人と捏ねる人と一体になり10分くらい搗いていると程よい粘りが出てきます、それを10センチくらいの玉にして深皿に載せソースをかけて出来上がりです。ソースはトマトソースに鶏かムトンの肉を一緒に煮込んだものできっと何か調味料があるのでしょうか、このソースがさっぱりとしているにもかかわらず酷があり説妙な味付けで、それとモチモチとしたフトゥがとても相性が良くいつの間にか胃の中に滑り込んで行ってしまいます。 2杯御代わりをしてお腹が膨れた頃バイクが到着し、いよいよサピナへ出発です。
サピナ村はナオリ州の州都POから7キロほど西に行ったところにある人口1,500人程の村で周りは小高い丘に囲まれワガドゥグ周辺の平坦な風景とは少し違い日本人の私には何と無く親しみが湧く風景です。人々は皆穏やかで、私が訪れるとまず子供が寄ってきます「ナサラ、ナサラ(白人の意)」と言いながら珍しいものでも見たか様に少し遠巻きに私を見ています、此処には私のような外国人は訪れることはないようです。中には恐ろしいのか泣き出す子供もいたりして、暫くすると好奇心旺盛の子供が近づいてきて握手をすると他の子供も安心したのか恐る恐る近寄ってきます、皆と握手をして「私は日本人で飯田といいます」、ふと、この村には学校がなくフランス語は話すことは出来ないことを思い出し、自分を指差して「IIDA,JAPONE」「IIDA,JAPONE」と何とか子供たちに気に入ってもらおうとカメラを取り出して見ると子供たちは写真を撮られることが好きらしく大騒ぎで集まってきます、他の方向にレンズを向けると又そこに集まるので面白くなり写すマネをしていろいろな所に移動をして子供たちと戯れていますとアリラが大声でなにやら一言云うと子供たちはすごすごと戻っていきました。アリラが村のシェフ(酋長)を紹介したいので一緒に来てくれというのでシェフの家に向かいながら何と無くこれからこの村で私はこの村の人々に迎え入れてもらえるかどうか、言葉もあまり解らないでこの村の人々とうまくやっていけるのか不安が募ります。
シェフの家は全体が土で造られたグリシー族特有の曲線的な造りで大きな囲いの中に幾つもの家がありそこで数家族が暮らしているようです。門の外に細い木で作られた椅子があり少し緊張した面持ちでそこで待っていますと赤い帽子をかぶった60歳くらいのいかにも酋長と思しき身なりの人物が数人の人と共に近づいてきました、私はアリラに促され椅子から立ち上がり酋長が椅子に座るとアリラがしているように前にひざまずき握手をしながらひたすら笑顔を作りアリラが私をカセナ語で紹介してくれているのを聞いていました。
ブルキナでは各国の援助で診療所や学校や井戸などの建設そのほか稲作や野菜の栽培など色々なプロジェクトが行われていますが私どものようなNGOは政府の機関を通してプロジェクトを行うより直接村に行き村の人々の合意を持って行うことも多く、その村のシェフの動向で全てが決まります。通常はその村の出身で行政や主な役職についている人に間に入ってもらい便宜を図ってもらうことが多いのですがなかなか村の実情を知ることが難しいことと、その人への報酬や設備なども割高になることも多く効果的な実績を果たすには自分自身直接村の人と話をして村の実態を把握し直接自分で依頼し結果を確認する必要があります。そのようなことで果たしてこれから新米の私が現地駐在員としての責務を遂行できるかとても自信がありませんが気持ちの何処かにどうせ乗りかかった船だ、精一杯頑張ってダメなら諦めがつくという開き直りも同居していました。
一通りアリラが私とこれからの事業のことをシェフに説明した後、村の人達20人位と話し合いが持たれました。私の目的はこの村に稲と井戸を作ること、稲の種類はNERICAという新しい品種でこれからこの村に普及させ食事を栄養のないミレット(粟)から栄養のある米に替えていくことが必要と同時に販売をして生活の向上に役立てたい、それから診療所の建設も行い村に人達が今まで病気で苦しんでいる状況をなくしたい、小学校を作り子供たちが公用語のフランス語を話せて読み書きが出来るようにしたい、将来は日本と交流を盛んにし日本の人が沢山訪れる村にしたい、それらの事を代表のアリラを介して人々に説明しました。始めは見知らぬ日本人が一人で旅行にでも来たと思ったのか何と無く余所余所しく振舞っていた村人がだんだん身を乗り出し興味を起して来るのを感じました。
ブルキナファソの初等教育就学率は39.5%、中等教育就学率は8%、15歳以上の識字率は26.6%と低く、村落にいたっては5%未満の識字率です。此処サピナ村も近くの小学校までは10キロの道を歩いて行かなければならず小さい子供に毎日の通学はかなりの道程で、もし村に学校が出来たとしてもそこに赴任する教員の宿舎や生活の負担、教材の購入などを各家庭で授業料として払える余裕もありません。又、医療においてはブルキナファソでは5歳未満の乳児死亡率は16%、村落では30〜50%と高い数値になります。私はサピナ村の人々を見るにつれ、この様な過酷な生活環境の中でこの人達の描く未来はなんだろう、子供たちの夢はなんだろう、私のように日本の豊かな環境で育って来た者とは違って彼らは村の生活をどの様に思っているのだろう、先進国への憧れはあるのか、でもどんなに努力をしたところで今のこの村の状況ではそこに行く事は不可能で大半が村で一生を過ごすことになります。果たしてそれが不幸なのか、それとも知らない方が幸せなのか、たとえ今の日本の生活状況を知ったとしても彼達にはどうすることも出来ない。私の思いは複雑になると同時に何処となく虚しさも覚えました。 <続く>
中年派遣員奮闘記(最終章)
<三年間のブルキナファソの生活を振り返って>
